昭和の沖縄島巡り

昭和の沖縄島巡り、懐かしさがこみ上げる紀行文と歌の数々です

■昭和の沖縄島巡り<<恵比寿のウージ畑(沖縄本島-東風平(こちんだ))>>■

◆行った所: 沖縄本島(昭和52年(1977年)4月~)<O064>◆
■島の情報: 沖縄本島 - Wikipedia


■詩『恵比寿のウージ畑』<その1>
山手線の窓から
ウージ畑が見えたよ
金色に輝く       <クガニイロ>
ウージ畑が見えたよ
コートの襟に首をすぼめる
そんな寒い朝だったよ


▲東風平(こちんだ)のウージ畑(さとうきび畑)
・東風平のウージ畑を初めてバイクで走ったのはもう四十年以上前の事となります。東風平のバス通りから、何気なく右に曲がったら別世界が広がっていました。

・農道の左右から溢れる緑のウージは、3メートル近くあり葉先は農道に溢れ出ていました。葉先から生まれる爽やかな緑の風、瑞々しい香りの中、バイクは1キロ以上も走り続けました。

・ウージ畑は、沖縄県内のいたる所にありますが、東風平のあれ程広いウージ畑、私は初めてでした。身も心もウージの緑に染まり、まるでウージ畑と同化して走っている様な感動のひとときでした。

◎空高くのびる、さとうきびの穂達です。

■詩『恵比寿のウージ畑』<その2>
東風平あたりのウージか   <コチンダ>
糸満あたりのウージか   <イチマン>
大きく育ったウージが
太く育ったウージが
冬の日を受けて
大きくうねったり
小さくさざめいたりして
金色の波を作るのが     <クガニイロ>
山手線の窓から見えたよ


▲サトウキビの本格的な栽培と儀間真常(ぎましんじょう)
・沖縄における、さとうきびの本格的な栽培は1623年、琉球王国の儀間真常が中国から製糖技術を導入したことから始まります。

・さとうきびは、強風や水不足に対して大変強い作物です。台風や干ばつなどの厳しい自然環境の沖縄で、さとうきびは欠かすことのできない基幹作物に成長してゆきました。

・琉球を侵略した薩摩藩は、財源確保のためにさとうきびの生産を奨励しました。農民には厳しい生産ノルマが課され、生活が困窮するほどの重税を強いられました。この時代は「黒糖地獄」とも呼ばれています。


■詩『恵比寿のウージ畑』<その3>
ウージ畑のむこうには
ピカピカ光る海
新北風をつばめが滑って行く先   <ミーニシ>
慶良間がくっきりと見える   <ケラマ>
「晴れてるけど暑くない」
そう!こんな天気の日は
絶好のウージ倒し日和り
朝から家族総手でウージ倒しだよ


▲近代製糖業(黒糖から分蜜糖へのシフト)
・明治時代になり、黒糖だけでなく精製糖(白砂糖)の原料となる分蜜糖の生産という製糖業の近代化へのシフトがありました。

・本土復帰(1972年)以降は「糖価安定制度」など国の支援を受けながらも、製糖業は沖縄農業の柱であり続けました。

・沖縄県の農家の約7割がサトウキビ栽培に関わっていますが、、近年では生産者の高齢化や労働負荷の高さにより、収穫量の減少や生産体制の維持が課題となっています。

・そんな中、いろいろな味にアレンジされた沖縄黒糖や、伝統的な手法で作られた多良間島や西表島などの離島の風味豊かな沖縄黒糖は、観光土産品として人気があります。

◎東風平出身の偉人「謝花昇(じゃはなのぼる)」の銅像です。

■詩『恵比寿のウージ畑』<その4>
ウージの葉っぱ落としは女の仕事   <イナグ>
道まで運ぶのは男の仕事   <イキガ>
二十本くらいずつ背負って運ぶ
最初は軽いと思うけど
だんだん肩にくいこんできて
最後は肩の感覚がなくなるよ


▲家族・親戚総出のウージ倒し
・成長したさとうきびの収穫をウージ倒しと言います。最近は機械を使ったウージ倒しもありますが、会社の同僚は家族・親戚総出の昔ながらのウージ倒しだそうです。

・ウージの葉っぱを刈り落とし、棒状にします。棒状になったウージを切って、二十本くらいに束ねて道路まで運びます。後はトラックに積んで作業終了です。

・作業前にウージ畑からハブを追い出すのはとても重要です。ウージ畑を叩いて音を出し、ハブを追い出します。ウージ畑にはネズミがいるので、それを狙ってハブも入り込んで来るのだそうです。

・家族・親戚総出のユイマール(共同作業)で、夕方までウージ倒しは続きます。アルバイト代なんてもちろん出ませんが、会社の同僚には子供の時からの当り前となったウージ倒しです。会社の仕事より肉体的にはキツイようですが、何か楽しい作業のようです。


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・138_恵比寿のウージ畑【朗読版】(3分01秒)
・満員の山手線の車窓から、ウージ畑が見えました。
・朗読:仲吉史子

■昭和の沖縄島巡り<<那覇(10枚)・写真集(沖縄本島-那覇>>■

◆那覇・写真集(10枚): 沖縄本島(昭和52年(1977年)4月~)<O063>◆
■島の情報: 沖縄本島 - Wikipedia

 

01_那覇_旧国内線ターミナル1:那覇空港ターミナルを出ると、光が溢れていました。

02_那覇_旧国内線ターミナル2:タクシーで那覇市内に向かう人がいます。

03_那覇_旧国内線ターミナル3:バスで那覇市内に向かう人もいます。

04_那覇_バスターミナル1:沖縄本島を縦横に走るバスが集まるバスターミナルです。

05_那覇_バスターミナル2:空港行きのバスに乗る時にいつも使うバス停です。

06_那覇_那覇マリーナ:那覇マリーナのレストランは、オープンなスペースです。

07_那覇_パレット久茂地:国際通りの始点にあるパレット久茂地です。

08_那覇_航空自衛隊1:航空自衛隊基地オープンデーです。飛行機は、セイバーです。

09_那覇_航空自衛隊2:航空自衛隊基地オープンデーです。飛行機は、ファントムです。

10_那覇_友人宅にて:友人は、海産物ずくしで、もてなしてくれました。

 

■昭和の沖縄島巡り<<史(ふみ)ちゃんのわらべうた(沖縄本島-那覇)>>■

◆行った所: 沖縄本島(昭和52年(1977年)4月~)<O062>◆
■島の情報: 沖縄本島 - Wikipedia

◎お薦めします⇒
・先に、このブログの一番下のYouTube版の「149_史ちゃんのわらべうた【朗読版】」の視聴をお薦めします。そうしていただければ、このブログの内容が更に深く伝わるかと思います。
・また、わらべうたの大意は、YouTube版のコメント欄を参照しください。


■詩『史ちゃんのわらべうた』<その1>
真玉橋を行く軽便鉄道から   <マダンバシ>
「こーじゃ馬小」の歌が聞こえる   <ウマグァ>
リボンをつけた史ちゃんが
窓にもたれて歌っているんだ

なぜ史ちゃんがこんなにゴキゲンかって?
糸満のおばさんに会えるし   <イチマン>
軽便鉄道には乗れるしで   <けいびんてつどう>
朝からもう歌いっぱなしだよ
―歌は「花ぬ風車」に変わった   <ハナヌカジマヤ>


▲生き生きとした沖縄わらべうたの世界
・私の詩『史ちゃんのわらべうた』は、史ちゃんが那覇から糸満までの軽便鉄道の車内で、知っている限りのわらべうたを歌い続けるという内容です。

・「こーじゃ馬小(うまぐぁ)」
「花ぬ風車(はなぬかじまぁ)」
「小録豊見城(うるくとぅみぐしく)」
「波々わんわちゃくり」
「ベーベーぬ草」
「雨どーい(あみどー い)」
「赤田首里殿内(あかたすんどぅんち)」
「てぃんさぐぬ花」
「月ぬ美しゃ(つきぬかいしゃ)」…

・史ちゃんが歌う「沖縄のわらべうた」の名前を並べて見ました。名前だけを見ても、何とバラエティーに富み、生き生きとした沖縄のわらべうたの世界が感じられる事でしょう。

・私はこの詩を作っている時に、大きな赤いリボンをつけた史ちゃんが、軽便鉄道の窓にもたれて、大きな声で歌っている姿がはっきりと見えました。


▲「史(ふみ)ちゃん」とは、仲吉史子(なかよしふみこ)さん
・「史ちゃん」とは、仲吉史子さんの事です。仲吉史子さんは、大正10年、那覇市壷川(つぼがわ)に生れました。

・現在の壷川は、海まで1キロ近くありますが、仲吉さんが生れた頃は、家の前がすぐ海で、あふれる様な沖縄の自然に囲まれた子供時代を過ごしたそうです。

・私は、仲吉さんの子供時代の話を聞く度に、その頃の沖縄の自然や街並みが目に浮かび「行ってみたいな~」と思ったものでした。


▲私と仲吉史子との出会い 
・私と仲吉史子さんは「沖縄のわらべうたが取り持った縁」と言えます。それは、仲吉さん編曲の「沖縄のわらべうた曲集」を本屋で見つけた事です。

・本にあった連絡先に電話してみると「家にいらっしゃい」と快く言ってくださいました。それから、仲吉さんとの長いお付き合いが始まる事となった為です。

・第一印象は、とても人なつっこいおばあちゃんという感じでした。その時に「今度、沖縄県の依頼で「神奈川沖縄ふるさとの家」を始める事になったから、あなたも沖縄の友達を連れて来なさい」言われ、友人のJ君といっしょに「沖縄ふるさとの家」の会員にしていただきました。

・そして「沖縄ふるさとの家」の世話人を長年つとめた仲吉さんは、沖縄県から感謝状をいただく事となりました。、

仲吉さんのわらべ唄のアルバムです(自費制作)

■詩『史ちゃんのわらべうた』<その2>
「赤田首里殿内」は   <アカタスンドゥンチ>
道に迷った史ちゃんを
家まで無事に
連れて帰ってくれた歌

「てぃんさぐの花」は   <ティンサグヌハナ>
悪い事をした史ちゃんに
涙を流しながら
おかあさんが歌ってくれた歌


▲「てぃんさぐの花」と史ちゃんのおかあさん
・悪い事をした史ちゃんに、おかあさんはガミガミ怒ったり、ましてはメーゴーサー(ゲンコツ)をしたりはしませんでした。史ちゃんがした悪い事を「てぃんさぐの花」の替え歌にして涙を流しながら歌い、史ちゃんを諭しました。

・この「てぃんさぐの花の替え歌」の話を聞いた時、私は、史ちゃんのおかあさんの深い思いやりと「沖縄では音楽が生活の中に根付いており、音楽の持つ力を深く信じているのだな~」と思いました。


■詩『史ちゃんのわらべうた』<その3>
史ちゃんの目に見えるもの
すべてが史ちゃんの友達で
すべてが史ちゃんの歌になる


▲生きた「沖縄のわらべうた」を実体験した仲吉史子さん
・仲吉史子さんは、親が歌う子守唄を聞き、友達と歌遊びをしたりと、生活の中で生きた「沖縄のわらべうた」を実体験した人です。

・私は、譜面化された「沖縄のわらべうた」からはわからない事を仲吉史子さんから いっぱい、いっぱい教えてもらいました。私にとって仲吉史子さんは「沖縄のわらべうた」そして、音楽人生の大恩人です。


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・149_史ちゃんのわらべうた【朗読版】(5分12秒)
・仲吉史子さんによる朗読版です。
・朗読:仲吉史子

■昭和の沖縄島巡り<<首里2(15枚)・写真集2(沖縄本島-首里③)>>■

◆首里・写真集2(15枚): 沖縄本島(昭和52年(1977年)4月~)<O061>◆
■島の情報: 沖縄本島 - Wikipedia

 

16_本島_首里_首里散策8:歴史のある首里キリスト教会です。

17_本島_首里_首里散策9:沖縄キリスト教短期大学の看板です。

18_本島_首里_鳥堀1:道路拡張が行われる前の鳥堀交差点です。

19_本島_首里_鳥堀2:道路拡張後の鳥堀交差点です。

20_本島_首里_鳥堀3:鳥堀交差点から石嶺向けの道路も拡張工事中です。

21_本島_首里_首里散策10:ブーゲンビリアの咲く道を降りてゆきます。

22_本島_首里_首里散策11:桃原バス停から首里城へ上がる坂道です。

23_本島_首里_首里散策12:風情のある入り口がありました。

24_本島_首里_首里散策13:こんな入り口も素敵ですね。

25_本島_首里_首里散策14:首里散策中に出会った犬です。

26_本島_首里_首里散策15:花屋の店先で花に見とれてしまいました。

27_本島_首里_儀保1:儀保にある拝所です。

28_本島_首里_儀保2:儀保から那覇市内を臨みます。

29_本島_首里_首里観音堂:歴史のある首里観音堂の建物です。

30_本島_首里_首里散策16:首里の高台から那覇市内を臨みます。

 

■昭和の沖縄島巡り<<首里1(15枚)・写真集1(沖縄本島-首里②)>>■

首里・写真集1(15枚): 沖縄本島(昭和52年(1977年)4月~)<O060>◆
■島の情報: 沖縄本島 - Wikipedia

 

01_本島_首里_首里城跡1:琉球大学時代からある「首里城跡」の碑文です。

02_本島_首里_首里城跡2:在りし日の首里城の全体図です。

03_本島_首里_首里城再建1:琉球大学時代の校舎がまだ残っています。

04_本島_首里_首里城再建2:琉球大学時代、生協だった建物です。

05_本島_首里_首里城再建3:琉球大学時代の校舎を壊し、再建工事は進みます。

06_本島_首里_首里城再建4:最初に完成した「歓会門」です。

07_本島_首里_首里城再建5:城の城壁も、積み上がってきました。

08_本島_首里_首里城再建6:首里城の本殿もほぼ出来上がりました。

09_本島_首里_首里散策1:首里城のそば、円覚寺の総門です。

10_本島_首里_首里散策2:琉球大学時代の男子寮跡は、県立芸術大学になりました。

11_本島_首里_首里散策3:首里城方向から「竜たん池」を臨みます。

12_本島_首里_首里散策3:「竜たん池」から「池端」を臨みます。

13_本島_首里_首里散策5:木々の間から「竜たん池」を臨みます。

14_本島_首里_首里散策6「竜たん池」のある「池端」のバス通りです。

15_本島_首里_首里散策7:「池端」のバス通りから首里城へ上がる坂道です。

 

■昭和の沖縄島巡り<<首里城の雲(沖縄本島-首里①)>>■

◆行った所: 沖縄本島(昭和52年(1977年)4月~)<O059>◆
■島の情報: 沖縄本島 - Wikipedia


■詩「首里(琉大旧キャンパスを偲んで)」<その1>
観光客でにぎわう守礼の門から
ハンタン山の坂道を下る
木立の中 弁財天の向こう
見え隠れする琉大男子寮


▲「琉球大学首里キャンパス」⇒ 最後の卒業生
・私は「琉球大学首里キャンパス」最後の卒業生です。卒業式を「首里キャンパス」の体育館で行い、式後、隣の男子寮の庭で記念写真を撮った事を覚えています。

首里城の跡地に建てられた「首里キャンパス」は、教育学部、法学部、理工学部など、たくさんの学部が、肩を寄せ合う様に建っているキャンパスでした。

・狭いながら、行けば必ず学友に会える「首里キャンパス」は、、和気あいあいとしたキャンパスでもありました。そして、私はそこで青春を過ごしました。


■詩「首里(琉大旧キャンパスを偲んで)」<その2>
昼なお暗い男子寮
廊下のゴミとハダカの男
ビートルズかぐや姫
太田裕美とディープパープル


▲カオスの世界⇒ 男子寮
・「昼なお暗い男子寮」。男子寮に入寮した一年生の私。昼間は消灯していた為か、廊下がうす暗かったという記憶があります。

・「廊下のゴミとハダカの男」。部屋からあふれた出たゴミは廊下に放置。平日は、掃除のおばちゃんが掃除してくれますが、すぐに廊下はゴミの山となっていました。

・クーラーなどなく、扇風機が頼りの男子寮。真夏の寮内はハダカが普段着の男も多かったです。

・「ビートルズかぐや姫」「太田裕美とディープパープル」。洋の西洋問わず、フォーク、ロック、アイドルなど、大音量で寮部屋から聞こえてくるサウンドは、乱立状態でした。

・しかし、このサウンドは、毎晩どこかの部屋で開かれている飲み会にはかかせませんでした。興が乗って来ると、ギターを弾く奴、ドラム代わりに枕をステックで叩く奴などと、飲み会は大盛り上がりです。明日の授業の事など、どこ吹く風と、夜中まで、心ゆくまで盛り上がっていた男達でした。


■詩「首里(琉大旧キャンパスを偲んで)」<その3>
竜潭池は散歩道   <リュウタンイケ>
釣糸たれる親子のそばを
小学生が走ってゆく
いつものベンチいつものタバコ

◎建設中の首里城本殿です。

首里城再建⇒ 嬉しさと寂しさ
・「首里城が再建される!」と聞いた時に「沖縄のシンボルが蘇る」という嬉しさと、これで本当に「首里キャンパスが無くなる」という寂しさの、二つの気持ちが浮かんで来た事を覚えています。

・すでに琉球大学は、西原キャンパスに移転しており、首里にはなかった医学部もできて、新しい沖縄の人材がどんどん育っていました。

・そして、首里の丘の上には、屋根に大きな龍をいただいた「沖縄のシンボル」首里城が再建されます。「首里キャンパス」は思い出にしまい、再建された首里城を歩いてみたいと思い始めた私でした。


■詩「首里(琉大旧キャンパスを偲んで)」<その4>
生協裏の広場の下
那覇の町が広がる
遠くクラクションの音が聞こえ
まばらな雲はゆうゆう流れる

首里から那覇市内を臨みます。

那覇の町⇒ ゆうゆうと流れる雲
・現在の「首里城」の「木挽門(きびきもん)」を入って、右側の丘の上に、琉大生協がありました。生協の裏には広場があり、那覇の町が一望できました。

・生協の隣りには、自由に使えるピアノ室があり、二十歳を過ぎてピアノを始めた教育学部の私は、毎日の様にそこへ通って、バイエルやブリュグミュラーを練習していました。

・練習に疲れて、生協裏の広場の石垣に座ると「遠くクラクションの音が聞こえ、まばらな雲はゆうゆう流れる」という那覇の町の景色が広がっていました。


■詩「首里(琉大旧キャンパスを偲んで)」<その5>
図書館へ続く階段に座り
夕暮れの一時を過ごす
世界で一番美しい夕焼け
最後の赤が消えるまで


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芭蕉布(3分54秒)
・歌唱力のある石嶺聡子芭蕉布は、天下一品ですネ。羽田さんのピアノも素晴らしいです。
・作詞:吉川安一 作曲:普久原恒男 歌:石嶺聡子 ピアノ:羽田 健太郎

+■昭和の沖縄島巡り<<浦添(うらそえ)の空(沖縄本島-浦添)>>■

◆行った所: 沖縄本島(昭和52年(1977年)4月~)<O058>◆
■島の情報: 沖縄本島 - Wikipedia

 

▲「さとうきび畑」の海原
・50年前の沖縄、街中をちょっと外れると、どこにでも「さとうきび畑」の海原が広がっていました。家も少なく、海原の中に家が点在するという感じでした。

・50年前の私、さとうきびの葉に光が反射してできた「緑の風」を胸いっぱいに吸い込みながら、バイクで走り抜けていました。そして「緑の風」が、心に詰まったほこりを吹き飛ばしてくれていました。


▲「さとうきび畑」と「浦添(うらそえ)の空」
那覇市に隣接する浦添市に、前田交差点という首里からの道と浦添の道が交差する場所があります。50年前の前田交差点から海に向かう下り坂の両側は「さとうきび畑」の海原でした。

・「OPEN SKY」。私は、前田交差点を走ると、いつもこの言葉が浮かんできました。急に視界が開け「さとうきび畑」の海原が現われる「OPEN SKY」。50年前の「浦添の空」です。

◎「OPEN SKY」「浦添の空」に立ち上る雲です。

▲「さとうきび畑」<歌詞>
ざわわ ざわわ ざわわ
広い さとうきび畑
ざわわ ざわわ ざわわ
風が 通りぬけるだけ


▲「さとうきび畑」の歌と沖縄
・「さとうきび畑」は、作詞・作曲が寺島尚彦、森山良子の歌で知られる名曲です。

・この曲の誕生のきっかけは、沖縄を訪問した寺島尚彦が、沖縄戦終焉の地、摩文仁(まぶに)の丘に行った時の事でした。案内人の「あなたの歩いている土の中に、まだたくさんの戦没者の遺骨が埋まったままになっています」との言葉に寺島は、強い衝撃を受けました。

・この経験から、寺島なりに沖縄戦の悲劇と向き合い、平和への願いを込めて作曲したのが「さとうきび畑」でした。

沖縄戦で父を亡くした少女をモチーフにした歌詞は、戦争の悲しみを静かに、そして深く歌い上げています。


▲「さとうきび畑」と「ざわわ」
・高さ2メートル以上に育った「さとうきび畑」の中に入り、耳をすませると、さとうきびの葉ずれの音が聞こえてきます。

・「さらさら」「ざわざわ」「バサバサ」。葉ずれの音は、風の吹く強さや向きによって変わります。

・「さとうきび畑」の歌の「ざわわ」は、葉ずれの音だけでなく、戦没者の悲しみと、その魂を表現していると言われています。

◎現在の「OPEN SKY」「浦添の空」です。

▲「さとうきび畑」と浦添前田駅
浦添市は、那覇市のベットタウンとして住宅地が年々増えています。「さとうきび畑」の海原は、次々と真新しい住宅に変わっています。

・沖縄のモノレール「ゆいレール」も浦添市まで延伸されました。前田交差点の横に「浦添前田駅」もでき、新しい浦添市の顔となりました。

・50年前、どこにでもあった「さとうきび畑」の海原は、新しく生まれ変わり、沖縄を支え、沖縄の中で今も生き続けています。


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・11.沖縄子供の歌・メドレー(5分07秒)
・「さとうきび畑」の海原と心晴々する「緑の風」です。
・曲:沖縄本島のわらべうた 編曲:南波照間 雅彦