昭和の沖縄島巡り

昭和の沖縄島巡り、懐かしさがこみ上げる紀行文と歌の数々です

■昭和の沖縄島巡り<<『南波照間』(パイパティローマ)(波照間島④)>>■

◆行った所: 波照間島(昭和64年(1989年))<O010>◆


▲先島だけに課された人頭税(じんとうぜい)
・薩摩の琉球侵略(1609年)の結果、琉球王府は財政に窮乏し、その対策として先島(宮古八重山の両地方)に限り、1637年から人頭税を課すことにしました。

人頭税は、廃藩置県後も解消されず明治36年まで、先島の人々を苦しめました。


人頭税石(じんとうぜいせき)の高さは1.43m
人頭税の課税対象がどうかの判断に使用されたのが、人頭税石でした。

人頭税石は高さ1.43mの石柱で、男女15~50歳までを対象に、この石の高さ以上の背丈になると税が課せられました。

・納税品としては、男は粟、女は織物などが義務づけられました。

◎この海の向こうに「南波照間がある」と島人は信じました。


▲島人の生活の困窮と『南波照間(パイパティローマ)』幻想
・昔から、島で生まれた人間は、余程の理由がない限り、島で一生を終えました。人頭税の導入で、島人の生活は苦しくなる一方でした。

・そんな中「島の南に『南波照間』という楽園が存在する」という話が、波照間島の人々の心を捉えながら、広まってゆきました。


▲『南波照間』幻想と島抜けする人々
・「八重山島年来記」という報告書には、1648年に平田村の農民40~50人が重税から逃れるために『南波照間』に向ったという記述が残っています。

・また、ヤグ村のアカマリという男が、税を取り立てに来た役人の船を奪い、村人を連れて『南波照間』に向かったとの話もあります。しかし、彼らが『南波照間』にたどり着いたという話は残っていません。

◎色鮮やかな波照間島サンゴ礁です。


▲『南波照間』と「ニライカナイ
・「ニライカナイ」とは、沖縄や奄美群島などに伝わる、海のかなたにある理想郷の事です。五穀豊穣の恵みを授けてくれるとともに、命の生まれる所、死後に行く所などと考えられています。

・『南波照間』を波照間島の「ニライカナイ」ではないかと言う人がいます。共に理想郷の事ではありますが、『南波照間』へ船出した人の話はありますが、私が知る限り「ニライカナイ」に向けて船出したという人の話は聞いた事はありません。


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・42.やさしい気持ち(高層ビルからの眺め)(5分55秒)
・「高層ビルから見える東京湾は沖縄につながっている」は、東京勤務の慰めでした
・作詞・作曲:南波照間 雅彦 歌:ぱいぱてぃろーま