昭和の沖縄島巡り

昭和の沖縄島巡り、懐かしさがこみ上げる紀行文と歌の数々です

■昭和の沖縄島巡り<<唐人墓(石垣島④)>>■

◆行った所: 石垣島(昭和60年(1985年))<O018>◆


▲チャイニーズ・シアターを思わせる唐人墓
・タクシーを飛ばして網張(アンパル)に行った帰り道、唐人墓に行きました。ロサンジェルスのチャイニーズ・シアターを思わせる外観の唐人墓ですが、その碑文からは、石垣島で非業の死をとげた中国人の方々を知るとともに、当時(琉球王国)の八重山政庁や島民の人道的な対応も知る事となりました。

◎唐人墓の全景です。

 

▲労働奴隷「苦力」の反乱
・19世紀半ばのアメリカでは、アフリカの黒人奴隷だけでなく、中国から「苦力(クーリー)」と呼ばれる労働奴隷を大量に連れてきていました。

・1852年、カリフォルニアに送られる船上、不当な扱いに堪えかねた「苦力」が反乱を起こし、船長ら7人を打ち殺す事件が起きました。


▲380人の中国人が石垣島に上陸
・その後、船は石垣島沖に座礁し、380人の中国人が島に上陸しました。石垣島の人々は、彼らに食物や住まいを提供して保護にあたりました。

・しかし、米国と英国の追求は厳しく、砲撃を加えた上で、兵を上陸させ、逮捕・銃殺などを行なったので、多大な中国人犠牲者を出す事となりました。

◎唐人墓の屋根の中央部です。

 

▲島内に点在して犠牲者の墓を合祀慰霊するための唐人墓
・事件は、関係諸国を動かし「生存者172名は、中国に送り返す」という形で決着しましたが、それは石垣島民の人道的な対応の賜物でもあったと思います。

・唐人墓は、島内に点在して犠牲者の墓を合祀慰霊するため1971年に建てられ、この事件で命を落とされた中国人128人の霊が祀られています。


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・77_月ぬ美しゃ(ボーカロイド版)(2分28秒)
石垣島の子守歌「月ぬ美しゃ」の合唱版です。
・曲:石垣島の子守唄 編曲:南波照間 雅彦

■昭和の沖縄島巡り<<網張ぬ目高蟹ユンタ(アンパルぬミダガマユンタ)(石垣島③)>>■

◆行った所: 石垣島(昭和60年(1985年))<O017>◆


▲網張(アンパル)は、私の憧れの地
・網張は、石垣島の西側、名蔵(なぐら)湾に面する浜辺です、そして、私にとって網張は、石垣島民謡『網張ぬ目高蟹ユンタ(アンパルぬミダガマユンタ)』を、初めて聞いた時からの憧れの地でした。

・風光明媚な「網張」は、現在は公園として整備され、民族資料館もあります。私が行った時は、平日の昼間という事もあり、光あふれる網張には、私以外、誰もいませんでした。公園入口から、ジャングルの中の遊歩道を抜けると、目の前に網張の浜がパッと開けました。

◎網張の浜は、マングローブの密林でした。

▲『網張ぬ目高蟹ユンタ』の歌詞<1>
・網張ぬ ウリ 目高蟹でんどー ハーイへ  
 マタ ハーイへ マタ ハーイへ マタ ハーイヤーヌ カーヌース(はやし)

・(大意)網張の ウリ 目高蟹だぞー ハーイへ 
 マタ ハーイへ マタ ハーイへ マタ ハーイヤーヌ カーヌース(はやし)


▲『網張ぬ目高蟹ユンタ』は、誕生パーティーの歌
・『網張ぬ目高蟹ユンタ』は、網張の浜に「目高蟹」とその仲間の「蟹」が集まり、手分けをしながら「目高蟹の誕生パーティー」を行うという内容の民謡です。


▲『網張ぬ目高蟹ユンタ』の歌詞<2>
・目高蟹 ウリ 生年でんど ハーイへ 
・(大意)(今日は)目高蟹の 誕生日だぞ 

・蟹数ぬ ウリ 芸能あんど ハーイへ    
・(大意)蟹たちの 余興があるぞ 

・ギターサ蟹や ウリ 準備数 ハーイへ   
・(大意)ギターサ蟹は 準備係 

・ムミンピキ蟹や 三線人数 ハーイへ   
・(大意)ムミンピキ蟹は 三線係 …

◎残念ながら「目高蟹」の写真は撮れませんでした。

▲10種類以上の「蟹」が登場する『網張ぬ目高蟹ユンタ』
・この後、全部で10種類以上の「蟹」が登場し「誕生パーティー」での役割分担が歌われ「目高蟹の誕生パーティー」が始まります。

石垣島の人達は、網張に住む「目高蟹」などの「蟹」に個々に名前を付けただけでなく、形状などから相応しい役回りまで与え、にぎやかな民謡にしてしまいました。私は、そこに石垣の人達の自然に対する極め細やかな愛情を感じます。


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・トゥバラーマ(3分52秒)
八重山を代表する素晴らしい民謡です。
・曲:八重山の民謡 歌:山里勇吉

■昭和の沖縄島巡り<<-僕の月ぬ美しゃ(ツキヌカイシャ)(石垣島②)>>■

◆行った所: 石垣島(昭和60年(1985年))<O016>◆


▲『月ぬ美しゃ(三和の想い出)』の歌詞<1>
ウージ畑にななめにそそぎ 遠い波の音と交わり
手の届くくらい近く あんなに大きくあるお月様
 

▲お月さまの光が、さとうきび畑に降り注ぎます
・あんなに大きく、あんなに近くにあるお月さまの光が、
ウージ畑(さとうきび畑)の中を、ななめに降り注ぎます。
遠く波音も聞こえ…心安まる、心嬉しい月夜の晩です。 

・これは、私のオリジナル曲『月ぬ美しゃ(三和の想い出)』の歌詞です。


▲オモト岳を臨む三和村
・『月ぬ美しゃ(三和の想い出)』の三和村は、友人が生れた所で、
石垣島の中央、雄大なオモト岳を臨む小さな村です。

・暖かくむかえてくださった三和村の友人の家で、とても、、
楽しい一時を過ごしました。

◎オモト岳の下を通る於茂登トンネルです。

▲『月ぬ美しゃ(三和の想い出)』の歌詞<2>
お月様がのぼれば真昼のようさ 寝るにはおしい夜
大人たちは浜辺で酒盛り 僕たちは広場で影踏み

 

▲夕暮れのパイナップル畑とオモト岳
・三和村の広大な大地には、パイナップル畑が広がっていて、
私が行った時には、コブシ大の実が規則正しく並んでいました。

・友人宅を失礼した後、夕暮れのパイナップル畑を散歩しました。
広大なパイナップル畑の先に、夕焼けのオモト岳が輝いていました。

石垣島の水田にいた水牛です。

▲『月ぬ美しゃ(三和の想い出)』の歌詞<3>
おばーの昔話は「笑う魚」 クバオージの風の中
「笑う魚」といっしょに 夢の中を泳いでいったよ

 

▲「笑う魚」は、ニッコリと笑う魚です
・「笑う魚」は、海を行く船のそばまで親しげに寄って来ては、
『ヒト(人)よ、ヒトよ』と言ってニッコリと笑う魚の話です。

・「ヒィートゥ」は、鳴き声からついた方言名で、イルカの事です。
「ヒィートゥ」は、沈没した船から人を助けた事もあるそうです。

◎ニッコリと笑う魚(ヒィートゥ)は、イルカの事です。


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・10.月ぬ美しゃ(三和の想い出)(3分33秒)
石垣島の三和村の想い出がつまった歌です。
・作詞・作曲:南波照間 雅彦 歌:ぱいぱてぃろーま

■昭和の沖縄島巡り<<-月ぬ美しゃ(ツキヌカイシャ)(石垣島①)>>■

◆行った所: 石垣島(昭和60年(1985年))<O015>◆


▲『月ぬ美しゃ(ツキヌカイシャ)』とM子さん
石垣島の子守歌『月ぬ美しゃ』を聞くと、石垣島生まれのM子さんとの思い出が、心にベールのように重なってきます。

・大学1年生、サークル主催のダンスパーティーで出会った小柄なM子さんは、とても輝いていました。ダンスの曲がジルバに変わった時「僕、ジルバは苦手なんだ」と言うと「二人で作って踊ちゃいましょう!」と明るく言う、ユニークで不思議な女の子でした。

 

▲「バラエティーショー」とM子さん
・公園のベンチで待っていると、M子さんが走ってきて「バラエティーショーのチケットが当たったの!もう始まるの!」と、はずむ息で言うので、二人は一目散に会場へ走って行きました。

・私は「バラエティーショー」の舞台と、大きな声で笑うM子さんの横顔を交互に見ながら、とても幸福な時間を過ごしました。その時の「バラエティーショー」で知名定男さんが「バイバイ沖縄」と「赤花(あかばなー)」を歌った事を覚えています。

石垣島のなだらかな島影です。

石垣島に帰るM子さんを見送りに
・正月休みで石垣島に船で帰るM子さんを見送り行きました。するとM子さんから「出航まで時間があるから、教会のクリスマスミサに行きましょう!」と誘われました。

・M子さんが通う教会では、荘厳なクリスマスミサが行われていました。ミサで、初めて見た「洗礼」の儀式には、驚きの方が強かったです。

 

▲M子さんの悩み
・M子さんは家族の事で悩んでいた様でしたが、生来鈍感な私は、そんなM子さんの悩みを聞いてあげたり、助言をしてあげるという頭がありませんでした。

・後年、私の母が急死した時、心の混乱がおさまらず教会に通いました。あの当時、M子さんは何も言いませんでしたが、相当悩んでいたのだろうと、私も教会に通いながら、やっと思いやることができました。

◎ミルク(弥勒)様は、五穀豊穣の神様です。

▲M子さんと結婚まで… 
・大学1年生、受験勉強から開放され、おもしろそうな事がいろいろ目に入ってきました。封印していた音楽活動も再開し練習にも余念がない日々でした。

・その頃、人伝てに「M子さんが高校時代に好きだった人と再会した」という話を聞き、その頃からM子さんとは疎遠となり、今にいたっております。

・もし大学3年生くらいに、M子さんと出会っていたら、もっと違った展開となり、もしかしたら、結婚していたかもしれません。何故ならM子さんは、今まで出会った女の子の「マイベスト1」だからです。


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・110_月ぬ美しゃ(歌唱版)【ReMix2022】(3分28秒)
石垣島の子守歌「月ぬ美しゃ」は、沖縄を代表する子守歌です。」
・曲:八重山の子守唄 編曲:南波照間 雅彦 歌:南波照間 雅彦

■昭和の沖縄島巡り<<-島の南に住む人(西表島③)>>■

◆行った所: 西表島(昭和60年(1985年))<O014>◆


▲島の中央から南西側は「東洋のガラパゴス
西表島の集落は、二つ港を中心に島の上半分に集中しております。島の中央から南西側は、地図上に道すらない原生林の森と川があり、天然記念物「イリオモテヤマネコ」などの希少動物の生息地です。手付かずの自然が残る西表島は「東洋のガラパゴス」と呼ばれています。


▲田ノ浜海岸に暮らす一人の男性の映像
・島の南に広がるとても長い海岸線は、田ノ浜海岸という名前です。この田ノ浜海岸に暮らす一人の男性の映像を、テレビで見た事があります。

・日に焼けた顔には、テレビ撮影に対する戸惑いが見られましたが、レポーターのブシツケな質問にも、淡々と答えていたのが印象的でした。

◎タコの木と、沖縄の青空です。



▲私の頭にはロビンソン・クルーソー的想像が広がった
・テレビを見た後も「あの男は、どうやって生きているのだろうか?」という疑問は「あの男の衣・食・住はどうなっているのだろうか?」に変わり、私の頭にはロビンソン・クルーソー的想像が広がって行きました。

・東京出向中の私の頭には「西表島移住」が点滅していたのかもしれません。


▲衣・食・住(東京生活からのイメージとギャップ)
・衣-着たきりスズメはいたし方ないけれど、着替えの一つくらいは欲しいな~?
・食-目の前の海は、鮮魚の冷蔵庫だが、採れるかな?毎日魚じゃ飽きるかな?
・住-まず、風通しが良くないと、でも台風を考えると堅牢さも必要だろうな?

・衣・食・住の揃った東京生活からのイメージは、マイナス面がデフォルメされます。

◎サトウキビ畑の夕暮れです。



▲『島の南に住む人』は、私とは別世界に住む人に
・「毎日、す潜りで魚を採り、焼き魚と貝の食事。服は汗臭く、蚊には刺されっぱなし、その上、地面から沸くような沖縄の夏の暑さ、想像するだけで頭がクラクラ~~…」

・「私には無理だ!」と、私のロビンソン・クルーソー的想像は、暗礁に乗り上げました。そして、憧れの『島の南に住む人』は、私とは別世界に住む人にシフトされました。


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・浜千鳥(6分49秒)
・旅の野宿、思い出されるのは親、そして我家。渚では浜千鳥が鳴いている。
・曲:沖縄本島の民謡 ・沖縄県公式チャンネルの動画です

■昭和の沖縄島巡り<<西表のコーヒー農園(西表島②)>>■

◆行った所: 西表島(昭和60年(1985年))<O013>◆


▲「西表島でコーヒー農園を始める」とN氏
・「彼女と西表島に移住する。」と、N氏から聞いたのは、90年代、私の東京出向も終わりに近い頃でした。
・「西表島に行って何をするの?」という私の問いに対して、「西表でコーヒー農園を始める。」という意外な答えが返ってきました。


西表島に実る赤いコーヒー豆が見えた(?)
・N氏は東北生れで、東京で雑誌編集の仕事をしておりました。N氏の彼女は奄美島生れで、横浜で看護婦の仕事をしておりました。
・「何故、コーヒー農園なの?」という私の問いに対して、「コーヒーが大好きなので、この手でコーヒーを作ってみたい!」との回答でした。
・この言葉に私は、西表島に実る赤いコーヒー豆が見えた気がしました。

◎フクギと沖縄の青空です。


▲「沖縄本島にはコーヒーを作っている農家がある」とN氏
・「沖縄でコーヒーって、作れるの?」という私の問いに対して、「沖縄本島には、小規模ながらコーヒーを作っている農家がある。」との回答でした。
・「どうして西表島を選んだの?」は、N氏に聞いてはおりませんが、そこがN氏のN氏たるゆえんなのかもしれないと、勝手に納得しておりました。


▲コーヒーの白い花を咲かせるまでは成功したが…
・言葉通り、N氏は彼女と二人で西表島に移住してゆきました。そして、西表島にコーヒーの白い花を咲かせるまでは成功しましたが、最終的に、コーヒー農園を作るには至りませんでした。
・現在は、彼女とも別れ、石垣島で編集の仕事をしているそうです。

◎あの頃吸っていたタバコのスナップ写真です。


▲岩崎魚介作『南の島の便り』
・そんなN氏の西表島での奮闘(?)を描いた本が、岩崎魚介作『南の島の便り』(沖縄出版 1,600円)です。さすが文章屋さん、読む者を惹きつけてくれます。
・この本を読むと、自分もヤブレバイクで西表を走り回っている気分になってきます。興味のある方は一読をお勧めします。

◎岩崎魚介作『南の島の便り』です。


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・79_みさき(夕暮れの鐘)(ボーカロイド版)(3分06秒)
・イメージは「夕暮れのみさきに鳴る鐘」です
・作詞・作曲:南波照間 雅彦

■昭和の沖縄島巡り<<星立(ほしだて)のうた(西表島①)>>■

◆行った所: 西表島(昭和60年(1985年))<O012>◆


▲星立(干立)集落と夫婦岩
・星立は、西表島の西側に位置する細長い集落です。集落の前の浜には『星立のうた歌』に出てくる大小の岩(夫婦岩)があります。


▲『星立のうた』は、ユタ(巫女)の歌
・『星立のうた』は、元旦の早朝に神事に使う海水を汲みに行くユタの事を歌っていると、レコードの解説にありました。

・私の心に浮かび上がってくる風景は、手に海水を入れる壷を持ち、まだ月が残る星立の浜辺を静かに歩む神々しいユタの姿です。

・今でも星立集落では『星立のうた』(星立のトゥバラーマ)が、歌われていると聞きましたが、私が西表島で年越しをした時には、残念ながらを聞く事はできませんでした。

◎アルバム「おきなわの旋律(うた)」のジャケットです。

▲アルバム「おきなわの旋律(うた)」
・アルバム「おきなわの旋律(うた)」は、琉球大学音楽科の城間先生が指導されていた「プロムジカ合唱団」が歌う沖縄の歌を集めたレコードです。

・『星立のうた』は、西表島出身の青年が歌った原曲に感動した先生が、ピアノ伴奏付きのテノールのソロに編曲した曲です。先生の編曲は、サイモン&ガーファンクルの「スカボロー・フェア」のような透明感があり、私は「沖縄の歌の無限の可能性」を聞いた思いがしました。

・アルバム「おきなわの旋律(うた)」は、合唱による沖縄の歌への新しい試みがいっぱい詰まった素晴らしいアルバムです。「パナリの唄」から始まり、「砂持節」「月ぬ美しゃ」と続き、沖縄の旋律の普遍性と可能性を感じさせてくれるレコードですが、残念ながらCD化はされていない様です。

◎浜辺には奇岩があったりします。


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・白雲節(4分16秒)
・沖縄民謡の中でも人気の高い、素晴らしい歌です。
・曲:沖縄本島の民謡 歌:嘉手苅林昌